最近、吉野家の「牛鍋膳」にハマッていて、1日おきに食べているくらいです。食べながら、ふと、「牛鍋を庶民が食べ始めたのは明治以降かな」と思い、少し調べてみました。
牛鍋は、明治維新以降の文明開化を象徴するものの1つです。「牛鍋食わねば開化不進奴」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』)などといわれて、恐る恐る食べ始めたというエピソードがたくさん残っています。
仏教の殺生や神道の穢れの観念、また、農家では大切な労働力の一部であり、家族の一員でもあった牛馬を食べることへの抵抗感は、並大抵のことではなかったことでしょう。
しかし、武士の世界では肉食のタブーは弱かったようです。滋賀県彦根市では、牛の味噌漬が名産品となっていますが、これは、彦根藩が将軍家や水戸家・老中などに贈っていたことに由来しています。(ちなみに、彦根藩の藩校は現在の県立彦根東高校で私の母校です)
また、1800年代初めの江戸では、冬場を中心に、「ももんじや」「けだものや」と呼ばれる店が猪、鹿、熊、猿などの肉を鍋にして出していました。「薬食(くすりぐい)」と言われていましたが、1840年代になれば、獣肉を煮売りする商人が増えて、「婦女子にいたるまで肉味を知らざるはなし」といわれる状況だったようです。
明治維新以降、開港した地域やその周辺では、牛鍋、豚鍋の店がたいそうにぎわったのも、もともと食べる素地がすでにあったということでしょう。そして、横浜などに届ける牛や豚の飼育が関東全域の農村に広がり、北陸からも子牛の売り込みが絶えなかったといいます。
庶民は抵抗感をもちながらも、おいしければ肉を食べるし、儲かるとなれば肉用牛も飼うということです。いやはや、たくましい。
以上、『牛鍋と庶民』でした。