希望・民進 統一会派断念
希望の党と民進党は、双方の執行部が進めていた統一会派の結成を断念しました。「安倍1強」と対決するため、新党の結成をも視野に入れていたようですが、昨年の衆院選での「排除の論理」に対する遺恨が民進党内に噴出したと報道されています。
党分裂をも覚悟していた希望の党は肩すかしを食らった格好です。野党は「多弱」のまま、通常国会の論戦に臨むことになりました。個人的にはとても残念でなりません。
「数合わせ」はいけないのか?
この結末に対して、「数合わせをしようとするからダメなのだ」との論調が多くみられます。民主主義は最終的に数で決着します。なのに、なぜ、「数合わせ」はいけないのでしょうか?
第2次世界大戦前のドイツで、反ナチスの勢力が「数合わせ」をして1つのまとまりを作っていれば、ヒトラー独裁を防ぐことができたという説があります。
党の成り立ちや綱領が異なる自民党と公明党の連立政権は、「数合わせ」ではないのか。一方の野党は、理念・政策ばかりに目くじらを立てて、分裂し続けています。「数合わせ」を拒絶することのデメリットを考えるべきです。
分裂すれば、負ける。まとまれば、負けない。このことは、自公連立政権が選挙で勝ち続けていることで証明されています。
なぜ、リベラルは育たないのか
日本のリベラル勢力が大きく育たない原因の1つは、敵を間違えることです。打倒すべき大きな敵がいるにも関わらず、内輪の小さな違いを言い立て攻撃しあい、互いに消耗していく歴史を繰り返しています。過激派左翼は殺し合いまでしていました!
このことは、昨年の衆院選でもみられました。希望の党へのバッシングは、自民党よりも反自民の勢力からの方がすさまじかったわけです。自民党は何もしなくても、野党側でけんかしてくれるのですから、さぞかし楽な選挙だったでしょう。
もちろん、何のために「数合わせ」をするのかの目的は重要です。
「安倍政権の暴走を止める」とすべての野党が訴えています。それが本気ならば、本当に止めなければなりません。きれい事にこだわって、止めることができなければ、それは単なる自己満足、マスターベーションの類と同じ、とは言い過ぎでしょうか。信念に基づいて訴えていくことに意義があるのは、学生の弁論大会です。
こういうことを書くと、左派・リベラルからは「変節だ」「エセだ」と糾弾の声があがりそうです。なんだか陰鬱な気分になります。
以上、『「数合わせはいけないのか 希望の党と民進党 統一会派断念』でした。